紅い深緑に抱かれて ―In One Late Summer― 果てしなく広がる草原があった。 そこは蒼々と生い茂った、花のない雑草たちの他には地面から何も生えていなかった。 そして、その草々一本一本がぎゅうぎゅうに敷き詰めていて、土色が見える隙間もない。 まさに、『あたり一面の緑』という言葉がふさわしい。 今、そんな『緑』の他にある色を強いて挙げるなら、そこで寝そべっている一人の人間の髪と服の黒、そして人間の隣で止まっている一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)のフレームに反射する紫外線の銀……その程度だった。いずれも、その『緑』のアクセントとしてはあまりにも弱い。 ふと、黒――黒いジャケット、パンツを見に付け、黒い髪をした人間――が、ころん、と寝返りを打った。目は開いていた。 その表情は若く、大きい目をしている。年の頃は十代後半くらい。あるいは、それより上。 人間はただただ、芝生の上で寝そべっていた。 たまに吹くやや強めの清涼な風が、草たちと人間の髪を凪いで揺らす。 何度目の風が吹いたあとだろうか。 「ねえ、キノ」 幼い少年のような声が、澄んだ空気を微かに震わせた。 その声は、人間から発せられた声ではない。 「なんだい、エルメス」 最初の声より、少し高めの声が返ってきた。 その声は、人間から発せられた声だった。 「いつまでそうしているつもりさ?」 エルメスと呼ばれたモトラドから発せられた声は、呆れの色が混じっていた。 「いいかげんに出発しないと、野宿になっちゃうよ。食料に困っていないって言っても、次の国までもうそこまで遠くないんだろ?」 キノと呼ばれた人間は少し微笑んで、 「まあね。けど、もう少し……なるべく長く、こうしていたいんだ」 「なんでまた」 「そうしたい気分なのさ」 「じゃあ、野宿でもいいってわけ?」 「今日はね」 再び、強風が吹いた。今までより、少し冷たい風だった。 そのあとに、エルメスが小さく呟いた。 「…どんなバカでも風邪は引くんだよ」 キノは足元のエルメスの後輪を軽く蹴った。 「くしゅっ」 太陽の位置が、大分低くなった。 紅玉の煌きのような色の太陽が、碧の海を紅く染め上げている。 キノは草原の上で寝そべっていなかった。 茶色のくたびれたコートを羽織り、さっきまでエルメスに取りつけてあった荷物の整理をしていた。かなりの量の荷物たち――寝袋、毛布、タープ、調理器具、ロープ、携帯食料、古新聞、その他諸々、後を挙げるとキリがない――が、キノの周りに積み上げられたとき、ふとキノは手を止めた。そしてほんの少しの間だけ、驚愕に満ちた表情で硬直していた。 しばらくして、キノは表情を元に戻して後ろにいるエルメスに振り向かないまま、尋ねた。 「エルメス」 「ん、なに?」 「あの子……さくらちゃんのこと、覚えてるかい?」 「…………うん。まあ、ね」 短い沈黙の中、今までで一番強く冷たい風が一番長く吹きつづけた。そのあと、エルメスがかなり驚いた様子で聞いた。 「いきなりどうしたんだい?」 「これが見つかってね」 キノはカバンから何かを取り出し、エルメスのほうに振り向いて、その手にあるものを見せた。小さくて可愛らしい、少し年月が経っている袋だった。 「……それって」 「さくらちゃんがくれた袋さ」 「……」 「もう、どのくらい経っているんだろうね…」 あの優しい国が、灰の下に埋もれてしまってから。 「さあね」 エルメスはそっけなく、そして小さく答えた。 そして少しだけ間を置いて、尋ねた。 「その袋って確か……あの国の結婚式、でだっけ? キノが、あの子のために見つけてきてあげたやつだよね?」 「ああ」 「んでさ、その中に入ってる種って確か…なんかの意味あったよね?」 「…ああ」 「どんな意味だっけ?」 「……」 キノはしばらく黙った。 そして首を横に振って、 「昔のことだ。もう忘れてしまったよ」 と、きっぱり言った。 でもエルメスは下がらずにすかさず、 「うそつき。本当は覚えてるくせに」 「……」 キノはそのまま表情を変えずに黙った。 エルメスはまた少しだけ間を置いて、聞いた。 「…恥ずかしいの?」 「……」 「笑わないからさ、教えてよ。気になるじゃんか」 …溜め息のあと、キノが小さく何かを言った。 次の瞬間、けたたましい笑い声が冷えた空気を大きく震わせた。 キノはさっきよりもかなり強く、エルメスを蹴った。 笑い声は、止んだ。 しばらくして、エルメスは気を取りなおして聞いた。 「キノは幸せな花嫁さんになりたいのかい?」 「まさか」 キノはすかさずそう答えて、 「…そんなこと、考えたこともないよ」 と、付け加えた。 エルメスはからかうような口調で、 「本当かい? なんだかんだで、案外漫才でもなかったりして」 「……まんざら?」 「そうそれ」 エルメスはそう言って、黙った。 キノも何も言わなかった。 ふと、小さな袋に目を戻すと、そこから小さな光のようなものが生まれていることに気づいた。『それ』は、初めは小さく…やがて大きく、キノの視界いっぱいに広がっていった。 婚儀の衣装に身を包んだ、まだ少年少女とも言える男女。そんな微笑ましい二人を冷やかしながらも、暖かく祝福する大勢の人々。鮮やかに宙に舞う、花びらのような髪吹雪たち。もしくは、本物の花びらたち。 それら全てを見守るように照らす、暖かく穏やかな太陽の日差し。 暖かい光景。 …幸せの具現。 「幸せ……か」 キノは自然にそう呟いた。 太陽は、もう地平線に埋まりそうだった。 さくらちゃん。 君はすべてを知っていたんだね。 でもどうして、あのときボクと一緒に行こうとしなかったんだい? 一緒に来れば、幸せになれたかもしれない。 生きていれば、幸せになれる可能性はいくらだってあったかもしれないんだよ? 「ううん、わたしはどこも行かないよ、ここで勉強して、ここで一番の案内人になる。それが私の夢だもん」 それが、私の幸せ。 「エルメス」 「ん、なに?」 「君は幸せかい?」 「は? いきなり、何?」 「いいから。幸せかい?」 「……まあ、ね。こうしてキノに走らせてもらっているし。結構冷や冷やさせられることは多いけど、走らないモトラドは幸せにはなりえないよ。それが洗剤意地みたいなものだしね」 「……ああ、存在意義?」 「そうそれ」 「今日一日で七回目だよ、エルメス」 「……」 キノは小さく口の両端を上げて、黙るエルメスを見た。そして、手の中の袋を見た。 もし、その夢が叶わないのなら。 夢と共に――幸せと共に死ぬのも、君の幸せだったのかい? 視線の先に映る黒髪の少女は、何も答えなかった。 ただ、悲しそうに微笑んでいた。 そして、消えていった。 ――ボクは、幸せなのかな? 「さあね。そんなのぼくにわかるわけないじゃん。キノが自分が幸せだと思うんだったら、幸せなんじゃない?」 何となく漏らした呟きに意外な風に答えられて、キノは少し驚いてエルメスを見た。 エルメスは続けた。 「キノは幸せじゃないの?」 キノはエルメスから視線を外し、手の中の袋を見つめた。 少しだけの間、そのままでいて――やがて、顔を上げて答えた。 「わからない。 …強いて言うなら、その日よりけり、かな」 「なんだ」 「でも…」 「でも?」 キノはふいに立ちあがると、両腕を枕にしてエルメスの座席につっ伏した。 そして、続けた。 「こうしてエルメスと旅をしてられるのは、幸せなことなのかもしれないな。今はよくわからないけど…そのうちわかるときが来るかもしれない。来ないかもしれない」 「…はあ」 「だけど、例えどんな事があったとしても…後悔することはないと思う」 「……さいで。よくわかんないけど…まあ、それならいいんじゃない?」 キノはエルメスの興味なさげな返事に、しかし満足したように微笑んだ。しばらくそのまま突っ伏していたが、やがて身を起こして立ちあがり、荷物の山の近くに座り込んだ。そして小さな袋を荷物の山のてっぺんに落ちないように置くと、再び整理作業を始めた。 この日最後の陽光が、一瞬とても眩しく草原と旅人たちを照らす。同時に、風が吹いた。 強く、冷たい――それでも、優しい風が。 キノだけに聞こえる、少女の声を乗せて。 「素敵な人ができたら、ぜひハネムーンにいらしてくださいね」 キノは苦笑いを浮かべた。 そして、 「……ボクにそんな人が、はたしてできるかどうか」 「は? …さっきから一体何なのさ、キノ?」 かなり怪訝そうな声のエルメスにキノは、 「いいや、今のは何でもないよ」 と、微笑んで言った。 エルメスはしばらく黙ったあと、 「風邪じゃなくて、ボケが始まったかな?」 と言った。 金属を強打する音が、冷涼な空気を震わせた。 そして、静寂があたりを包む。 秋はもう、そこまで来ていた。 End. ひとつwebならではの小さな仕掛けがしてあります。(バレバレですが) 赤と緑の組み合わせって、何か好き。クリスマスカラーだからじゃなくて、自然という美しい色に染まるただれた血のイメージがすきだから。(根暗め) そういう意味ではポーリュシカポーレ(ロシア民謡)が大好きです。 →back← |