注意:「うたかた。」の続編に当たります。
   未読の方はそちらの方を読んでからお願いします。 









夢と林檎 ―His and Her Case―






夢 ―Have you dream sweetly?―

 そこは、木々が道を作る平原だった。何の変哲もない、小石が多少転がっているが割と綺麗に舗装された道だ。上に広がる夏の空は、蒼と白が見事なコントラストを形成していた。
 その空の下、またその下で、バギーが道から外れて木の下の草の上に止まっていた。その木は他よりも一段と大きく、雄々しく、その枝や葉が作る影は木に寄りかかって眠る旅人にとって、恰好の日除けとなっていた。
 旅人の年の頃は20代前半。多少の疲労の色が見えるが、実に穏やかそうに眠っている。が、その表情に合わず左手には鞘に収まった刀を携えていた。
 しばらくして、熱気を帯びた風が吹いた。それは木々を揺らし、青々とした葉を少しだけ散らす。大木の葉も何枚か旅人を包むように散っていった。瞬間、鋭い金属音が響き渡る。
 旅人が目の前を睨んでいた。右手一本で抜き身の刀を構えて。

「ただの葉です、シズ様」

 シズ様と呼ばれた旅人の左脇のほうから、静かな声が流れた。
 そこには、ふさふさで長い真っ白な毛を持つ犬がいた。アーモンド形の目で、とても愛らしい外見をしている。声はこの犬から流れたものだった。
 シズは少しそのままで硬直して、やがて目を軽く閉じてふーっ、と長く息を吐くと、刀をゆっくりと鞘に戻した。シズの前方には不自然に綺麗に切られた葉が何枚か落ちていた。
 シズは再び大木に寄りかかると、

「情けないな。殺気立っているつもりはないのだが」

 と、少し苦い顔で呟いた。白い犬がシズを見て、

「この暑さです。お疲れがたまっていらっしゃるのでは?」

 シズは少しぶっきらぼうに、

「…そうかもしれないな」

 と、答えた。

「恐らく日没までこの日差しは続くでしょう。外敵もいないようですし、今日はここで野宿されては?」

 珍しく助言をする下僕に、シズは目を大きくした。やがて、

「…そうだね。お前に従おう、陸」

 そう言ってわずかに微笑みながら、シズは陸と呼んだ犬のふさふさの毛を優しく撫でた。その動作にはどこか、微妙なぎこちなさがあった。
 陸は再びシズの顔を見た。表情は穏やかだが、どこか暗鬱とした苛立ちをも感じさせるような、そんな横顔だった。その目線は遠い。

「どうかされましたか? シズ様」

 その言葉で我に返るように驚いて、シズが陸を見た。でもすぐにまた遠くを見つめて、

「……いや」

 と、やはり少しぶっきらぼうに答えた。陸は再び、尋ねる。

「夢見が悪かったのですか?」
「……」

 陸の言葉が流れてしばらくの間、シズはただただ同じように遠くを見つめていた。だが少しして、陸の方へ顔と視線を移動させる。シズはほんの少しだけ口の両端を上げて、

「……そう、だな…」

 そしてまた再び、顔と視線を遠くへ移動させる。地平線に跳ね返る光に少し目を細めながら。

「とてもいい夢だった。そう」

 夏の眩しい光は、まだしばらく止みそうにない。陸はシズを、見つめている。

「だけど同時に、とても嫌な夢だった」
「?」

 陸は少し訝しげな顔をした。

「見ているうちはいい夢だった。とてもね」

 淡々とそう言うと、シズは目を伏せて、

「だが…いい夢であればあるほど、目が覚めるとむなしいものだ」
「なるほど」
「まるで、ただの願望の…それもひどく愚かしい願望だって、嘲笑われているような気がするんだ」

 何とも形容しがたい…笑っているような、怒っているような、泣いているような顔をして言った。そして、

「実際…そうなのかもしれないが」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた。






 あの少女はどうしているだろうか?



 今も耳元に残る、あの少女の吐息。
 目を閉じれば、あの少女の体温が思い出されるように、血がざわめく。
 自分が紛れもなく、夢でもなく抱いた、あの少女を感じることができるような…そんな気になる。
 無論そんなことは、女々しすぎるような気がして己の僕にはいえないが。



 あの少女はもう、自分のことを忘れてしまっているだろうか?
 どこかの男と、愛し合っているのだろうか? …愛し合えるのだろうか?
 『愛する』ということがわからない、と言っていたあの少女は誰かを愛しているだろうか?









現実 ―In the Dark Forest―

 そこは、深い黒に近い緑の色彩に囲まれた、閑散とした森だった。森というよりは、樹海という言葉の方が正しいのかもしれない。
 年季の入った太い常緑樹が、行く人を襲いかかる様にアーチを作って、長く長くそびえたっている。
 そのアーチの下には、小さな車が一台分ぎりぎり通る程度の幅の道が一本、奇妙なカーブをいくつも形成して続いていた。
 道といっても、やはり場所が場所で人通りが少ないのか、お世辞にも舗装されているとは言えない。両脇に生える茂みと茂みで区切られている、あるだけましな程度のものだった。ところどころにやや大きめの岩が転がっていて、道幅が足りていても結局車での移動は困難を極める。
 そんな道を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものっだけを指す)が遅いスピードでぎこちなく走っていた。
 運転手は、上から太陽があまり差し込まないためか、暗くてその体躯ははっきりしない。それでも、一つだけいえる事があった。
 その運転手は、かなり弱っている。


 モトラドのエンジン音にかき消されてはいるが――息が少し荒い。



「大丈夫かい、キノ」

 モトラドが少し怪訝そうな声で、運転手に尋ねた。
 キノと呼ばれた運転手から、返事はない。
 夕方に近づく午後の優しい太陽の光が、少しだけ、樹木の葉のかけあみから漏れた。
 運転手の表情が、わずかに照らされる。
 黒い短髪の上に耳を覆うたれの付いた帽子をかぶっていて、少し曇っているゴーグルの下には、大きな目が写っている。
 青ざめた顔には、顔を洗った後のように水滴がたくさん付着している。
 目尻の辺りから、たまっていた水滴が頬を伝って流れ落ちた。冷や汗だった。
 よろめき危なっかしく走るモトラドが、少し呆れた声で呼びかける。

「キノぉ、休んだ方がいいよ。残念だけど、今日この森を抜けるのは無理だよ。もうすぐ日も沈み始めるし。諦めることも、旅人の大切な能力だって、キノも言ってたじゃん」
「……」
「別に急いでるわけじゃないんだろ? 森が嫌いなのはわかるけど、ここで無理することもないじゃない。ノミ着て鍛冶屋に入るようなもんでしょ?」
「……蓑着て……」

 そこでキノの言葉が途切れた。
 次の瞬間、道端にあった周りよりひときわ大きい岩に、モトラドの前輪が強くぶつかった。ぎゃあっ、という叫びとその衝撃のあと、 モトラドの座席にあるはずの重みが消えた。

「キノぉっ?!」

 首を絞められたような声がしてすぐに、モトラドは重く大きな音を立てて倒れた。

「こーゆーのが嫌だったから、言ったのにさ…………非道い」

 派手に転倒したモトラドは、茂みに仰向けで埋もれたまま動かない人間に向かって、思い切り不満げに呟いた。



「ただいま、エルメス」
「大丈夫かい、キノ?」

 茂みから現れたキノに、エルメスと呼ばれたモトラドは今日で六回目の台詞を、それまでと同じように言った。

「大分楽になったよ。ケガも大したことはない」

 近くに流れる川の水で濡らしたバンダナを額に当てながら、キノが答えた。
 バンダナを押さえる手には、少しだけ擦った痕があって、血がうっすらと滲み出ている。もう片方の、黒いジャケットを持つ手も同じように血が滲み出ていた。

「それは何よりで」

 いつもの声でエルメスが言った。

「すまなかったね、エルメス。あれから異常はなかったかい?」
「んー、まあ、あれだけ派手にやられたわりにはね。フレームがちょっと、傷ついちゃったけどさ」

 見ると確かに、鈍色のフレームに倒れたときに小石かなんかで擦れたのか、微細で真新しい傷跡が少し増えている。しかしさした数ではなく、古い傷跡の方が断然に多い。

「しかしまあ、どうしたのさ。キノさんともあろうものが、貧血かい? それとも、なにかカビの生えたものでも食べた?」

 キノは無言で首を横に振った。

「じゃあ、どうして?」

 キノは黙ったまま自分の身体の部位を指さした。

「お腹? やっぱり、何か悪いもの食べたんじゃないか」

 からかうようなエルメスの口調に、キノは、さっきよりしっかり首を横に振ると、今度はさす指を少し上のほうに上げて大きく楕円を描いた。

「え? ……何それ、口で言ってよ」

 キノは少しため息をついた。大分楽になったとはいえ、それでも口を使って説明するのがやや億劫だったらしい。

「お腹…もそうなんだけど、どっちかって言うと胴体全体が…特に胸が苦しかったんだ。縄でぐるぐるきつく締め付けられているような気がして…とても苦しかった」
「ふ〜ん。なんでまた」
「わからない」

 しばらく黙る。
 ふと、キノは片手に持つジャケットを見た。しばらくそれを見つめたあと、自分の脇から腰の辺りまでの肉をつまみあげた。

「……太った、かな」
「あ〜、それ言えるかもね。前の国でご飯食べまくったんでしょ?」
「……そんなことは」

 前の国で食べていたもの。
 昼はいつものようにお金が許す限りの食事を食べていたが、泊まっていたホテルは確か創業二百五十周年だかなんだかで、一日目は焼肉食べ放題、二日目はヌードルを用いたありとあらゆる料理の食べ放題のサービスを、とてつもなく低価格で実施していた。
 キノはそれらのサービスを全て受けていた。

「……」
「まったく、旅人たるもの健康管理はちゃんとしなきゃ」
「そうだな……」

 キノは素直にエルメスの言葉にうなずいた。



 そういえば。
 その国で一日目に会ったあの人。



「……」
「どうかした? キノ」
「どうかしたって…何のことだい?」
「すごく不快そうな顔してない?」
「……気のせいだよ」









過去 ―After He loved Her―

 あの夜。
 少女を抱いて、少し添い寝をしたあと風に当たりに外へ行った。
 それから帰って来て部屋のドアのノブを回そうとしたとき、一瞬不安がよぎった。
 あの少女はもう、帰ってしまったのではないかと。
 だが、すぐにそんな考えは捨てた。帰っても当然なのだから仕方ない、と。
 そして、ドアのノブを回した。が、部屋は開かなかった。
 思えば当然だ。鍵を閉めたのだから。
 そう思ったとき、少し嬉しくなった。鍵がまだ閉まっているということは、少女はまだ部屋の中にいるということだ。
 シズは鍵を開け、ドアのノブを回して部屋の中に入った。そして、少し驚いた。

「起きて……いたのかい?」
「ええ」

 黒い髪の少女はベッドから身を起こしていた。

「あの…」
「ん?」

 少女は一回だけ小さなお辞儀をすると、淡々とした声で言った。

「ごめんなさい」
「……え?」

 一瞬どくん、と鼓動がうなった。ひどく冷たく。
 少女は続けた。

「…シーツを汚した上に破いてしまいました。……ごめんなさい」

 シズは一瞬目を見開いて硬直した。それから、

「…あ、ああ。そういうことか……」

 と言った。それから安堵するようにため息をついた。

「?」
「それだったら、気にすることはないよ。それより…」

 不意に、シズがキノに背を向ける。キノは訝しげな目でその背中を見つめる。
 シズはぎこちない声で、

「それより…その……服、着てくれないかな。せめて、タオルケット…だけでも」
「……あ」

 いくら抱いた相手とはいえ服を着ている側としては、改めてその華奢な肢体を見るのは、恥ずかしいらしい。

「…なにか、飲み物でも持って来るよ。シャワーでも浴びているといい」
「……お願いします」









歌 ―While, She is...―

 蒼い月夜に騒ぐ身体


 その歌はとても綺麗な声で歌われていた。
 澄んでいるような…どこか中途半端で、でも美しい、少年のような声で。
 奇妙で機械的な、でも非常に透明な音楽と共に。



 あなたと野生の瞳に戻ろう



 キノは入国してまもなく、国の住民に美味だと勧められた店に入った。その時、ちょうど歌が始まったようだった。



 どこまで強く抱きしめれば


 店内は暗くなっていて、客のテーブルの一つ一つに古びた感じで且つ上品なランプが置かれている。小さな舞台があった。その上で安物の照明を浴びて、エンジの上品でかつ質素なドレスを来た女性が歌っていた。何ともない興味心で惹かれて、キノはその奥のほうへと歩いていく。食を進める手を休めてまで聞き惚れている、客たちのテーブルを脇に。



 おもいのすべては届くのでしょうか



 近づいていくと、歌手が女性というよりは少女くらいの年齢だということがわかる。キノと同じくらいか、上ほど。
 歌手に手を差し伸べられるくらい近くまでに、辿り着いた。そして、単純に驚いた。



 あなたの下で初めての
 痛みと目覚めを覚えたの




 少女は、キノと瓜二つだった。



 理性の林檎吐き出した
 私を嫌いにならないで…










その前に ―Farewell―

「そろそろ、失礼しますね。お茶、美味しかったです」
「…キノさん」

 すぐ後ろからシズに声を掛けられた。

「はい?」

 キノは振り向いた。すぐ目の前に、真摯な表情で見つめるシズの顔があった。キノは、本人にも分からないくらい微妙なだけ、身を堅くした。表情は変わらないままで。
 シズは目を伏せた。そしてしばらくして、意を決したかのように、再びキノを見つめた。
 そして、言った。

「最後に…一度だけ。もう一度だけ、君のことを抱きしめてもいいかい?」

 最後は、強制的ではなく。
 出過ぎた願いだというのは、重々承知しているから。

「……」

 キノは、相変わらずいつもの表情でシズを見つめていた。しばらくそのまま、互いに見つめあう。
 やがて、キノが一瞬だけ目を伏せて、口を開いた。

「シズさん」
「なんだい?」
「少し、身を屈めてもらえませんか?」
「?」

 少し怪訝そうな顔をしつつも、シズは素直に少し膝を曲げた。ちょうど目の前にキノの顔があった。

「このくらいかい?」

 その言葉には答えず、キノは両手でシズの顔を包んだ。
 そして、自分の顔を急激に近づけた。

「……」

 一瞬、シズには何が起こったのかわからなかった。
 やがて、それを理解したときには、口の中で相手の舌が自分のそれと絡まっていた。

「…き……」

 声は出たが、言葉にはならなかった。
 そのまま舌を絡めた。
 目はいつの間にか、閉じていた。









歌姫 ―singing princess―

「旅人さーん」

 夕食を済ませたキノが店の外へ出たとき、裏手の方から声を掛けられた。さっき歌っていた少女だ。その少女はキノに追いつくとにっこりと自然に微笑んだ。つられてか、キノも微笑んだ。
 すると、少女が声を出して笑い出し、

「本当にそっくりね」

 と言った。

「ボクのことに、気がついてたんですか?」
「うん。あそこまで前にいられたら、暗くてもよくわかるわ。正直わたし、歌ってる最中に思わず『あ』って言いそうになっちゃった」

 そう言うと、少女はとびきりの笑顔を見せた。

「わたしはヒメ。この店で歌わせてもらっているの」
「ボクはキノ。旅をしています」

 キノは淡々と答える。
 …奇妙な感じだった。
 自分とまったく同じ容姿で、声までまったく同じな少女の存在に対する驚愕と感激。 
 普通なら単純にそれだけなのに、なにか言い知れない不快感があった。

「昔からわたし歌が大好きでね。…ひょっとして、あなたも歌うの好き?」
「ボクもよく、歌は歌いますよ」
「へえ、どんな歌歌うの?」
「ええと…」
「なんなら歌ってよ! 今なら誰もいないでしょ?」

 キノは周囲に誰もいないことを確認して、少し息を吸うと、いつも歌うときの歌のワンフレーズを歌った。少しアップテンポでなめらかな曲だ。
 曲が終わると、ヒメは目を見開いていた。しばらく何も言わなかった。そして、

「…すごい。すごく、上手い。キノさん、歌手になれるよ!」

 とても興奮した様子で言った。心からの感嘆を込めて。キノは無表情のまま、

「…そうでしょうか?」
「そうだよ! …なんだったら、私と一緒に組んでみない?」

 一人急速に盛り上がるヒメを、キノは一瞬だけ見つめたが、すぐに、

「…気持ちはありがたいのですが、ボクは旅を続けたいんで……」

 淡々とそう答えた。

「…そっかあ。そうだよね、仕方ないか」

 ヒメは少し残念そうに言った。そして、はっと目を見開いて、

「ごめんなさいね、いきなり。わたしの悪い癖なの」

 と、再びとびきりの笑顔を見せた。と思ったら、すぐに連射式のパースエイダーのように喋りだした。
 歌がどれくらい好きか、3歳のころから歌を習っていたこととか、最初の発表会で緊張しすぎて音を外したこととか、恋人のこととか、とにかく何でも喋った。
 キノは、彼女の話を妙に真剣に聞き入っていた。

「わたし、今日歌った歌、とても気に入ってるの。今までで一番、よく出来た歌だと思ってる」
「そうですか…。ボクもいい歌だと思います」
「ありがとう」
「あの…歌詞も貴方が?」
「もちろんよ」
「なんで、あのような……その」
「…?」
「…いや。歌詞が…少し。ボクにはあまり聞いたことのないようなタイプだったもので…」
「ああ、そういうことか」

 キノのその言葉で全てを理解したらしく、ヒメは少し顔を赤らめて微笑んだ。

「確かにちょっと引かれるような詩かもしれないね。でも、あの詩は…照れくさい話、わたしの今の気持ちそのものなの」
「…そうなんですか?」

 キノの問いにヒメはまた微笑んだ。そのどこか大人びた微笑みに、何故か、キノは胸の奥に改めて不快なものが生じるのを感じた。

「あなただけに教えるね。わたしに似た旅人さんとして、親愛の意味をこめて」

 そういうとヒメはキノとまったく同じ顔で微笑んで、まったく同じ声で言った。

「…あの詞はね、わたしのとてもとても、愛しい人と一夜を過ごしたあとに思い浮かんだ詞なの」



 ……。



「その人も、わたしのことを愛してくれている。こんな気持ちは初めてなの…」



 ……。



「こんなにも、深くて。切実で。憎くて。…いとおしい気持ちは、初めてなの……」



 ……イトオシイ?



「あ、彼だわ!」

 ヒメの大声に、キノは少しだけ宙に浮いていた意識を戻された。

「それじゃ、わたしはこれで。…よかったら、明日も来てね!」

 そう言うと、ヒメは長い影の方へと走っていった。そして、少し会話らしいものが聞こえたあと、二人は腕を組んで通りを歩いていった。相手の男は背が高いらしく、二人の間には顔一つ分以上身長差がある。
 キノはそれを、少し呆けたように見つめていた。
 そして、自分とまったく同じ容姿をして、まったく同じ声をしたあの少女が、あの歌を歌っているということに、言い知れない不快感を感じていた。
 ひとり、呟く。

「シズさんは…愛しいひとなのかな?」



 旅の折に出会っただけの、おとこのひと。
 初めて、自分の生まれたての姿を自分の…意思といえるかどうかはわからないが、とにかく、見せた相手。
 …初めて、自分を抱いたひと。



 それは、自分にとって愛しいひとだろうか?



「…初めてはやはり、好きな人がいいわよ」

 ふと、そう言って、あの歌姫は淋しそうに笑っていた。



 …そんなわけない。
 もう、あの人はいないのだから。
 初めて好きになったあの人は、もうどうあがいても触れることは叶わない。触れられることは叶わない。



 それなら。
 もう、誰が相手であろうと、何も変わらない。



 じゃあ、シズさんは?









18度の液体 ―why?―







 何か違和感があって、シズは目を開けた。
 そこには、大きい目だけがあった。それはおかしいことではない。だが、その目は震えていた。湖に石を投げ込んで波紋が広がるように、ゆらゆら揺らいでいるようだった。
 目尻の辺りから、溜まっていた水滴が頬を伝って流れ落ちた。
 それは…

「あれ……?」

 青年が慌てて顔を剥がすと、少女はかくん、と糸の切れた操り人形のように両膝を折り、頭を垂れた。少女はそのまま、

「どうして……」

 と、呟くように言った。
 シズは身を屈めると、キノのあごに触れて上げさせ、その表情を見た。その目は大きく見開かれていて、開けば開くほどに『それ』が溢れんばかりに湧き出てくる。口が少し、呆けたように開いていた。

「キノさん」
「ごめんなさい………………んん?」

 拭っても拭っても、『それ』が止まることはない。むしろ、かえってその勢いが増している気がする。否定をすれば、するほどに。
 ちくちくと、何かが胸を蝕んできているのがわかる。

「どうし、て……?」



 心の底から必要とする人がいない人生なんて、寂しくはありませんか? 虚しくはありませんか? 人間って、誰かと一緒にいて、誰かのために生きていないと、そうじゃないと、とっても辛いものなんでしょう?

 どこかで聞いた、そんな言葉が耳を打つ。
 ふと、脳裏に一人の少女が浮かんだ。
 長い髪の、赤いリボンをつけた、



 この人のこと、別に好きでもなんでもないんでしょ?



 少女は、歌を歌う時と同じ声で言った。そして続けた。



 愛してもいない人に抱かれるなんて。
 そんなの、あなたを愛してくれている相手に対する哀れみでしか、侮辱でしかないのに。
 どうしてそんなことをしちゃったの?



 耳を閉ざしても意味はない。自分のうちから、『それ』は問いかけているのだから。
 最後に少女は、これ以上ないほど恐ろしい形相で歌った。



 どうして。あなたは。そんなことを。して。しまったの?









「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 突然、ヒステリックな嗚咽が部屋を覆いつくした。
 シズは最初、それがキノから発せられているものだとは気づかなった。

「ああっ…う、う、うああ、ああああああああああああっ」

 少女の脳裏には、ある光景がフラッシュバックしていた。
 純白のシーツを少しだけ染め上げている、赤黒い斑点。脚と脚の間から漏れている、とてつもなく透明で粘った液体。肢体に残る、少しだけ鼻をつく饐えた匂い。それらに嫌悪を感じることは、不思議にもまったくもってなかった。『事実』は、あまりにもあっけなく、受け入れることが出来た。
 …………あの時は。

「キノさんっ」

 目を閉じると、あの時自分が感じていたものが思い出される。
 …視界は真っ暗。その時はずっと、目を閉じていたから。
 その分、鮮烈に深く刻み込まれていく感覚。
 他人の指が、唇が、舌が、肌が自分の素肌の上を這って滑っていく感触。
 耳に入ってくるのは、シーツと肌、肌と肌が擦れる音と、耳障りな軋む音、粘った音、布が裂ける音に、一回だけぷつん、と糸が切れたような音。熱く重い吐息。  それに加えてしばしば漏れるように聞こえてくる、自分の名を呼ぶ囁くような、喘ぐような声。
 「キノさん」、と。
 自分はずっと、相手の名を呼ばなかった。
 口も、言葉になるような声を発することはなかった。
 ただ、彼が自分の一番奥深くまで入ってきたとき。これ以上にない刺激に襲われたとき。
 唇が短い言葉を紡いでいた。それは声となっていた。
 その声に…言葉に。
 彼だけでなく、自分自身がひどく驚いていた。
 目から頬を伝って流れた、透明な雫にも。



 涙なんか…アノトキに枯れ切ったと、思ってイタノニ。









休閑 ―warm gleen―

「……落ち着いたかい?」

 気がつけば、目の前は温かなグリーンの毛糸。
 ああ…落ち着く。
 けど、落ち着いちゃだめだ。だって、ボクは、

「落ち着いて、いいんだよ」

 …ずるい。なんで、あなたはボクの考えてることがわかるの?

「俺のことは、どうだっていいから。…大丈夫?」

 …どう、して。
 あなたはこんなにも温かいの?









小さな祈り ―little pray―

「抱いてもらえば、わかると思ったんです」 

 泣きやんだ少女は、ふとそう言った。

「貴方の気持ちが。…愛するというキモチが」

 まるで自嘲するような笑みを浮かべて、続けた。

「でも、わからなかった。…わからないんです」

 シズはその言葉だけで、何とか、今の少女の状況を把握した。

「…それが悔しいのかい? それとも…」

 シズは身を屈め、キノの片方の肩に触れた。

「俺に対して、罪悪感を感じているのかい?」



 愛してもいない相手に、身体を許してしまったこと。
 それは、自分をこの上なく愛してくれている相手にとって、最大の侮辱。
 そのことに彼女は気づいてしまった。悔やんだ。そして、傷ついた。
 自分の浅はかだと思われる、行動に。
 相手を傷つけてしまったと思われる、行動に。
 …愛情がわからない、自分の心に。



「あの時、君は」



 ぃやぁっ…



「君は。『いや』って、言っていた」

 それも…恐らく、今までに本人ですら、聞いたことのない…悲痛で、掠れていた声で。
 悲鳴。……それでも、ひょっとしたら、歓声。オンナノコエ。

「確かに…」

 小さい声で、少女は言った。少女がひどく、小さな人間に見える。

「ボクは…嫌だったんです…。オンナになりたくなかった」

 でも、もうなってしまった。

「大したことはないと思っていたんです。でも…」

 少女は苦虫をつぶすような顔で、自分の心臓の辺りを握りつぶすように押さえた。

「でも、あの瞬間、確かにボクは、拒絶をした」

 その身体が、小刻みに震えだす。

「『オンナになる』自分に。…『オンナにした』あなたにも」
「キノさん…」
「…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな」

 少女の身体を、青年の腕が包んだ。
 その心の、悲鳴ごと。



「俺のことは、どう思っていてくれても構わないんだ」

 その声は、優しく。

「でもね」

 でも、確かに。

「愛することがわからないのは、きっと、ひどく寂しいことだと思う」

 少しだけ、残酷に。

「こう言うのは、自分の弁護に変わりないと思うけど。…きっとわかれば、君の言う『オンナ』ということも、受け入れられるんじゃないかな?」
「…シズ、さん」
「今すぐわからなくていいんだよ。ゆっくり、少しずつ、わかればいいんだ。…正直、俺だってわかっていないのかもしれない。だから、」

 シズは少しだけ身を離すと、両肩に手を乗せ、キノの額に、頬に、涙の跡にくちづけた。
 かぎりなく、やわらかく。

「今は、笑ってくれないかな?」

 そして、優しく微笑んだ。



 少女は泣き疲れたのか、しばらく放心した様子だった。
 でもしばらくして、少しだけ微笑んだ。
 青年はそれを見て、さらに微笑んで、もう一度少女を優しく抱きしめた。
 その光景はまるで、父と娘のようにも見えた。



 願わくば。
 どこかで自分のことを想ってくれれば、と思ってしまう。
 そんなのはひどく勝手で、考えるのも愚かしい、妄想だ。そう思うのだけれど、どうしてもその望みを、心のどこかで捨てきれないでいる。
 だが、万が一にもそれはない、と思ってもいる。
 自分は彼女に何も残さない。まさか、自分の肌の感触や、体温など、彼女は忘れないなどといえるだろうか。それどころか、自分の名も、声も、顔ですらも忘れてしまうのではないか。そういった、悲観的な思いも抱かずにいられなかった。









林檎 ―Lady's Ready―

 例えば乳房
 触れてと願う




 その歌はとても綺麗な声で歌われていた。
 澄んでいるような…どこか中途半端で、でも美しい、少年のような声で。
 奇妙で機械的な、でも非常に透明な音楽と共に。


 
 気持ちにそっと
 気付いて




 その歌は、いつしか二重唱になっていた。
 まったく同じ二つの声色が、少しだけ違うメロディを奏で、ひとつの歌となって、色を形成していく。
 普通の二重唱と違うのは、二人の歌い手各々が離れた場所で歌っているからだ。
 一つの声は、沈んだ光の中から。
 もう一つの声は、上昇しつつある光の中から。



 あなたのためにこのくちびる
 どうして大切に持てなかったのだろう




 そう、これは。
 ひょっとしたら、ただ一度限りのデュエットだ。



 赤く心臓走らせて
 その身をほどいてゆだねてよ
 波打つ背中 動けなくなるまで
 産声 捧げるわ




 しばらくの間、弦を振るわせる鍵盤だけが、滑らかに空間を踊る。
 そして、歌は静かに、しかし、確実にかけ昇っていく。



 どこまで強く抱きしめれば
 おもいのすべては届くのでしょうか

 あなたを食べてしまいそう

 あなたを壊してしまいそう

 理性の林檎吐き出した
 私を嫌いにならないで






 
「ブラボー」

 エルメスが一言、感想を言った。

「ありがとう」

 キノが一言、礼を言った。
 限りなく、事務的に。
 キノたちがいるすぐ近くのレストランでは、静かな、でも確かな量の拍手と喝采が溢れていた。
 続いて少女の感謝の気持ちを述べる言葉が店内に流れ出る。

「行こうか」
「いいのかい? 『キノのそっくりさん』に会わなくて」
「いいよ。それに」



「『あれ』は『私』じゃない」



 キノが一言、言い切った。
 その言葉は、半分真実で、半分嘘だった。
 その言葉は、半分嫌悪感で、半分…………。






 お願い。
 もう少し待っていて。
 そうすればきっと、『あなた』に辿り着ける。
 その日まで。
 また、『あなた』に会えるかな?
 いいえ、きっと、会ってみせるよ。



 そう、『二人』に向かって、心の中で言ってみた。









そのとき ―Man's madder―

 青年は、しばらくの間停止したままバギーの座席に座っていた。
 気のせいだと思った。
 でも確かに、その『歌』と『声』が聞こえた気がした。
 青年は少しだけ微笑んだ。



「いつか、必ず、だよ」






end.






 ここまで読んでくださって、本当に有難うございました&お疲れ様でした。(平伏)
 恐ろしく長くなってしまって申し訳ありません。一番驚いてるのは本人です。そして、まさかこれを完結させる日が来ようとは思いもしませんでした。
 何故なら、これを書き始めたのは、キノ2巻初版が出てた頃ですから(爆)

 それでもこれを完結させることができたのは、多くの方が気を長くして完成を待って下さっていたからです。本当に有難うございます。と打っていら、何だかリアルに涙が出てきそうです。(爆)

 解説もとい言い訳もとい蛇足を箇条書きいたします。

 ・ これだけの量を分割しなかったのは、流れで読んでいただきたかったからです。というか、うまく分割できませんでした。すいませんorz
 ・ 緑タイトルはシズサイド、赤タイトルはキノサイド、黒タイトルは総タイトル、茶タイトルはシズやキノのどちらでもない、という意味です。でも矛盾している箇所があったら申し訳ありませんorz
 ・ 「林檎」は実在する楽曲です。作中の文章で表したとおり、本当に綺麗な楽曲です。生々しいですが。(笑) 歌っているのはJungle Smileという私の大好きな二人組です。今はもう解散していますが。興味をもたれた方はこちら
 ・ 最後の「Lady's Ready」「Man's madder」は各々で解釈してくださると幸いです。'sはisの省略形かもしれませんし、所有の意味の'sかもしれません。ちなみにmadderは茜色という意味を採用しています。



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